外国人が見た日本(近代以前の日本にみる動物との共生) 〜鳥類と日本人 その2 「鶏」〜

ハリスは日本滞在中、幕府や現地の奉行からさまざまな贈り物をもらっています。その中でよく見るのが鶏です。


日本に到着した際、上陸先の下田奉行(井上信濃守清直)から鶏と鶏卵をもらったという記録があります。このころの鶏は、日本の庶民の間では主に、卵をとるために飼育されていたようです。

 

明治の初めに日本を訪れたアーサー・クロウは「日本内陸紀行」(Highways and byeways in Japan:The experiences of two pedestrian tourists)の中で、
「一つは血を流すことを忌む仏教徒の掟によって、またひとつには彼らの情け深い性質によって、日本人はめったにその家禽を、殺されると分かっていれば、手放そうとしない。もっとも、その玉子をとるのは平気である。家禽は普通一家の愛玩動物で、歩きたければ畳敷きの部屋の中を歩きまわることも許されている。」と言っています。

 

同じく明治初めごろに日本各地を周り『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を記したイザベラ・バードも「食用のためにはいくらお金を出しても売ろうとしない。だが、卵を生ませるために飼うというのであれば、喜んで手放す。」と書いています。

 

1863年に通商条約締結のため来日したスイスのエメ・アンベールは『幕末日本図絵』(Le Japon Illustré) の中で、下記のように記しています。
「鶏類は、寒帯地区を除いて、広く増殖されており、日本では、ヨーロッパでよく見られる鶏をすでによくこの地の気候に馴らして、多くの新種をつくり出している。品種の交換ないし支配は、相当昔から行われていたようである。気候に馴化された鶏舎で、日本の使節たちに、この品種はどこの鶏か知っているかと尋ねたところ、彼等は『多分、われわれがオランダの鶏と称している品種であろう』と答えた。」

 

伊藤若冲の絵にもみられるように、日本では鶏は誇り高く神々しい存在としても考えられていたようです。中国から伝わった「文、武、勇、仁、信」の五つの徳を備えた霊長とする考え方もありました。西洋のように食用に品種改良を行うのではなく、日本では「長鳴鶏」「尾長鶏」など鳴き声や観賞用としての品種改良がおこなわれていたようです。一方では闘鶏という悲しい文化に発展したりもしています。闘鶏自体の記録はすでに平安時代にみられるようです。その頃は「鶏合(とりあわせ)」として、公家や貴族の間で行われ、戦わせるというよりも鶏の鑑評会としての目的が強かったと言われています。現代の闘鶏に用いられる「軍鶏」は江戸時代にタイから伝わった(その頃のタイの国名「シャム」に由来して「軍鶏(シャモ)」)とされています。

 

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