ハリスが見た日本の自然~下田の景色~

ハリスが日本に到着した当時の年齢は52歳。ヨーロッパ人にとっては未開の地で、公務によるストレスから身体を壊しがちだったハリスは健康のためによく歩いており、そのたびに滞在先の下田の自然を賞賛しています。

 

「1856年9月16日、火曜日 美しく晴れた朝。空がサファイヤのように青い。風は北西から微かに。寒暖計は午前八時に七十六度(注1)。十一時に散歩に出かける。道が江戸湾の方に続いていて、景色はうっとりするように美しい。空は晴朗に―水は青く―白い波頭が立ち、江戸湾対岸の山地(北東岸)がかすかに見える。大きな角帆をつけた日本の小舟が、風をうけて快げに疾走している。この地方は、灌漑の水利がありところは、どこでも開墾されている。―中略―終いには丘の麓にいたるまで、段畑がすっかり灌漑されている。私は今まで、このような立派な稲、又はこの土地のように良質の米を見たことがない。」
 
1856年10月23日では、大島が噴煙を上げる様子も書き残しています。
「ここの田舎は大変美しい――いくつかの嶮しい火山錐があるが、できる限りの場所が全部段々畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。―中略―  私は散歩をつづけて、先ずヴァンダリア岬(注2)、すなわちこの土地の最南東部にきた。―中略―私とオーストラリアとの間約五千里に亙(わた)って全然陸地がないということに不思議な感じがした!更に東を見渡せば、大島がその山頂から噴煙をあげている。―中略―煙は数千尺におよぶ巨大な柱となって立ち昇り、更に上方にひろがって、巨大な白雲となっていた。―中略―きれいな、澄んだ、さわやかな大気と、至るところにみられる高地の耕作とが、きわめて美しい種類の、そして不断に変化に富んでいるところの景色と相俟って、この地方の散歩を、望ましく、そして長く記憶に残るものとする。」

 

下田の植物の記事で紹介した「女の知人に、日本の野花の束を贈ることができたなら」と言っていたのと同じ日、1856年10月28日には、下記のようにも書いています。
「この起伏の多い地方を歩きまわること、すなわち、ありとあらゆる丘の中で一番嶮しい丘に登り、更にもとの平原に下ることは、私の健康を大いに改善してくれる。私の食欲は進み、前よりもよく眠れるようになった。尤も、私が望んでいるほどには未だ達しないが。下田よりも温和な気候は、これまでのところ、世界のどこにもないと確信している」

 

ハリスは元商人という職業柄、クリスマスは故郷のニューヨークにいたことは何年もないとまで書き残しているほど様々な土地を旅しています。さらに日本上陸当初の日本の役人に対するハリスの評価は極めて悪いもの(「地上における最大の嘘つき」、「虚偽と、欺瞞と、お世辞、丁寧さとの、途方もない芝居」など)でした。なので日本びいき(後年じょじょに変化していきますが)というわけでもなく、下田という土地へのこの評価は誇大ではないと思われます。


(注1)摂氏0℃=華氏32℉なので、76℉は約24℃となります。


(注2)ヴァンダリア岬: 訳者の注によると「下田湾の入り口の東岸にあり、ペリー提督の『日本遠征記』にはヴァンダリア懸崖(Vandalia bluff)とある」そうです。
欧米人の記録を見ていると、見知らぬ外国の地形などに自分たちが呼びやすいよう独自に名前を付けていることがよくあります。第二次大戦で戦場になった硫黄島や沖縄など、アメリカ軍側の戦記にもこのような表記がよく見られます。