外国人が見た日本(近代以前の日本にみる動物との共生)~街道の牛や馬たち~

幕末から明治初期に日本に滞在した外国人たちの記録の中でもよく見られるのが、牛馬に蹄鉄を打たずに藁沓を履かせているという記述です。

 

1863年に通商条約締結のため来日したスイスのエメ・アンベール(元時計業組合会長)は『幕末日本図絵』(Le Japon Illustré) の中で、「日本の最も豊饒な人口の多い地点を南から東に延びている」と東海道のことを紹介する際に、街道の乗り物として駕籠と馬をあげ、「馬の方は、普通、手綱を腹帯に結びつけて、馬子の背後から首を垂れて歩いていく。日本人は、馬に蹄鉄を打たず、藁沓を履かせるが、しかし、この藁沓は、一日と持たないので、棄てて、新しいのと替えねばならない。このため、遠くへ行く時には、多くの藁沓が必要になる。―中略―日本の道路は人や馬の保護に奉仕した藁屑が散らばっている。」

歌川広重『名所江戸百景』の『四ツ谷内藤新宿』にも「藁沓」が描かれています

大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)は、1877年(明治10年)、腕足動物の研究のために日本を訪れ、江ノ島に滞在していました。
そのときの記録を記した『日本その日その日(Japan Day by Day)』で、「日本では我国と違って馬に蹄鉄を打たない。馬や牛が藁で作った靴をはいているのは、すごぶる観物である。これは厚い、編んだ底を持っていて、ひづめの後に結び付けられる。」

 

江戸時代、人間の旅人も「藁沓」は使い捨てで3日ほどで履きつぶしていたようです。往来には馬や牛のだけでなく人間の藁沓も捨てられてあったという記述はモースの記述にもみられます。

 

また別の日には下記のような記述もあります。
「牡牛一匹が二輪車に押し込まれ、柄は木製の環で背中の上を通って頸にのっかる。車にとりつけた大きな筵の日除けは、牛に日があたらぬようにするものである。足も藁の草履をしばりつけて保護する。」

 

モース手書きの絵

彼らの記述や、人間と同じ藁沓を牛馬にもはかせ、同じく街道にも同様に捨てているという光景から、江戸時代は人間の仕事を手伝う牛や馬にも人間と同じような情をもって接していたのではないかと考えられます。

 

馬の扱い方についてもいろいろな記述がみられるため、それらについては別の機会にまとめてみようと思います。

 

「藁沓」については、それを裏付ける写真も発見しました。箱根にある大涌谷ミュージアムでの写真です。説明書きには昭和初期ごろと記述があったので、そのころまでは藁沓を履かせる習慣が続いていたことがわかります。

温泉の工事現場でセメントを運搬する様子と書かれています。
牛の足元をよく見ると藁沓を履いています。

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