外国人が見た日本(近代以前の日本にみる動物との共生)~使役動物を食する~

ヨーロッパやモンゴルなど、使役動物である馬を食用にする地域は世界にはよく見られますが、食用に家畜を飼育するという習慣が基本的になかった江戸時代の日本には、使役動物である牛や馬も食べるという感覚もなかったと思われます。

 

ハリスは1857年8月、あまり上手な乗り手でなかったヒュースケンの馬の肩骨が外れてしまったとき、日記の中で『私はその哀れな獣を屠殺するように命じたが、誰も屠殺者の役目をひきうけるものがなかった。わたしは最後の拳銃をも手放してしまっていたので、それを射殺することができなかった。そうかと云って、屠殺者のように馬の咽喉を自分で切ることもできなかった。ついに、ひじょうに幸運にも、わたしはそれを人手に渡すことに成功したのだ!! 考えてもみよ! ロンドンの廃馬処分者、モンマルトルの屠殺の親方、ドイツの「本物のボロニヤ」ソーセージ製造業者の諸君よ! どこの国に、「煮て食おうと、炙(や)いて食おうと」勝手にしろと、馬を呉れてやるのに、こちらから頭をさげて頼みこむところがあろうか。』

 

この時ハリスがどう交渉して馬を手放せたのか記述はありませんが「頭をさげて頼み込む」という記述から、引き取った側も喜んで引き取ったのではないことがわかります。

 

馬刺しで有名な福島県会津地方も、馬肉を食するようになったのは幕末の戊辰戦争時、会津戦争での籠城戦中に牛馬を屠殺して食すようになったのがはじまりと言われています。すすめたのは、幕府陸軍軍医として従軍していた松本良順。良順は幕府の御典医で西洋医学所頭取なども務めるなど西洋の知識を日本に広めた第一人者でもあり、海水浴を日本ではじめに勧めた人としても知られています。
馬肉の生食がされるようになったのは、さらに時が進んで昭和30年代と言われています。

明治時代の松本良順(1832-1907)

また牛については、食肉の為の屠殺のはじまりの時期と思われる記述が、モースの『日本その日その日』に見られます。
「農夫が牝牛や牡牛を、三匹ずつ繋いで連れてくるのに遭った。―中略―これ等は三百マイルも向こうの京都から横浜まで持って来て、そこで肉類を食う外国人の為に撲殺するのである。彼らは至って静かに連れられて来た。追い立てもしなければ、怒鳴りもせず、また吠え立てて牛をじらす犬もいない。いずれにも足に厚い藁の靴をはき、上に日除けの筵を張られたのも多い。」

 

日本には昔から「伯楽」「博労•馬喰(ばくろう)」と呼ばれる人たちがおり、運送や耕作に使役する牛や馬の目利きや売買を生業としていました。彼らの存在は現在「伯楽町」「馬喰町」など地域の名前として名残を見ることができます。江戸時代までは牛馬は使役のために流通していましたが、肉食が「文明開化」の象徴として普及するようになった明治以降には、食用として扱うようにもなっていったと思われます。

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外国人が見た日本(近代以前の日本にみる動物との共生)~街道の牛や馬たち~

幕末から明治初期に日本に滞在した外国人たちの記録の中でもよく見られるのが、牛馬に蹄鉄を打たずに藁沓を履かせているという記述です。

 

1863年に通商条約締結のため来日したスイスのエメ・アンベール(元時計業組合会長)は『幕末日本図絵』(Le Japon Illustré) の中で、「日本の最も豊饒な人口の多い地点を南から東に延びている」と東海道のことを紹介する際に、街道の乗り物として駕籠と馬をあげ、「馬の方は、普通、手綱を腹帯に結びつけて、馬子の背後から首を垂れて歩いていく。日本人は、馬に蹄鉄を打たず、藁沓を履かせるが、しかし、この藁沓は、一日と持たないので、棄てて、新しいのと替えねばならない。このため、遠くへ行く時には、多くの藁沓が必要になる。―中略―日本の道路は人や馬の保護に奉仕した藁屑が散らばっている。」

歌川広重『名所江戸百景』の『四ツ谷内藤新宿』にも「藁沓」が描かれています

大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)は、1877年(明治10年)、腕足動物の研究のために日本を訪れ、江ノ島に滞在していました。
そのときの記録を記した『日本その日その日(Japan Day by Day)』で、「日本では我国と違って馬に蹄鉄を打たない。馬や牛が藁で作った靴をはいているのは、すごぶる観物である。これは厚い、編んだ底を持っていて、ひづめの後に結び付けられる。」

 

江戸時代、人間の旅人も「藁沓」は使い捨てで3日ほどで履きつぶしていたようです。往来には馬や牛のだけでなく人間の藁沓も捨てられてあったという記述はモースの記述にもみられます。

 

また別の日には下記のような記述もあります。
「牡牛一匹が二輪車に押し込まれ、柄は木製の環で背中の上を通って頸にのっかる。車にとりつけた大きな筵の日除けは、牛に日があたらぬようにするものである。足も藁の草履をしばりつけて保護する。」

 

モース手書きの絵

彼らの記述や、人間と同じ藁沓を牛馬にもはかせ、同じく街道にも同様に捨てているという光景から、江戸時代は人間の仕事を手伝う牛や馬にも人間と同じような情をもって接していたのではないかと考えられます。

 

馬の扱い方についてもいろいろな記述がみられるため、それらについては別の機会にまとめてみようと思います。

 

「藁沓」については、それを裏付ける写真も発見しました。箱根にある大涌谷ミュージアムでの写真です。説明書きには昭和初期ごろと記述があったので、そのころまでは藁沓を履かせる習慣が続いていたことがわかります。

温泉の工事現場でセメントを運搬する様子と書かれています。
牛の足元をよく見ると藁沓を履いています。

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ハリスが見た日本の自然~下田の景色~

ハリスが日本に到着した当時の年齢は52歳。ヨーロッパ人にとっては未開の地で、公務によるストレスから身体を壊しがちだったハリスは健康のためによく歩いており、そのたびに滞在先の下田の自然を賞賛しています。

 

「1856年9月16日、火曜日 美しく晴れた朝。空がサファイヤのように青い。風は北西から微かに。寒暖計は午前八時に七十六度(注1)。十一時に散歩に出かける。道が江戸湾の方に続いていて、景色はうっとりするように美しい。空は晴朗に―水は青く―白い波頭が立ち、江戸湾対岸の山地(北東岸)がかすかに見える。大きな角帆をつけた日本の小舟が、風をうけて快げに疾走している。この地方は、灌漑の水利がありところは、どこでも開墾されている。―中略―終いには丘の麓にいたるまで、段畑がすっかり灌漑されている。私は今まで、このような立派な稲、又はこの土地のように良質の米を見たことがない。」
 
1856年10月23日では、大島が噴煙を上げる様子も書き残しています。
「ここの田舎は大変美しい――いくつかの嶮しい火山錐があるが、できる限りの場所が全部段々畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。―中略―  私は散歩をつづけて、先ずヴァンダリア岬(注2)、すなわちこの土地の最南東部にきた。―中略―私とオーストラリアとの間約五千里に亙(わた)って全然陸地がないということに不思議な感じがした!更に東を見渡せば、大島がその山頂から噴煙をあげている。―中略―煙は数千尺におよぶ巨大な柱となって立ち昇り、更に上方にひろがって、巨大な白雲となっていた。―中略―きれいな、澄んだ、さわやかな大気と、至るところにみられる高地の耕作とが、きわめて美しい種類の、そして不断に変化に富んでいるところの景色と相俟って、この地方の散歩を、望ましく、そして長く記憶に残るものとする。」

 

下田の植物の記事で紹介した「女の知人に、日本の野花の束を贈ることができたなら」と言っていたのと同じ日、1856年10月28日には、下記のようにも書いています。
「この起伏の多い地方を歩きまわること、すなわち、ありとあらゆる丘の中で一番嶮しい丘に登り、更にもとの平原に下ることは、私の健康を大いに改善してくれる。私の食欲は進み、前よりもよく眠れるようになった。尤も、私が望んでいるほどには未だ達しないが。下田よりも温和な気候は、これまでのところ、世界のどこにもないと確信している」

 

ハリスは元商人という職業柄、クリスマスは故郷のニューヨークにいたことは何年もないとまで書き残しているほど様々な土地を旅しています。さらに日本上陸当初の日本の役人に対するハリスの評価は極めて悪いもの(「地上における最大の嘘つき」、「虚偽と、欺瞞と、お世辞、丁寧さとの、途方もない芝居」など)でした。なので日本びいき(後年じょじょに変化していきますが)というわけでもなく、下田という土地へのこの評価は誇大ではないと思われます。


(注1)摂氏0℃=華氏32℉なので、76℉は約24℃となります。


(注2)ヴァンダリア岬: 訳者の注によると「下田湾の入り口の東岸にあり、ペリー提督の『日本遠征記』にはヴァンダリア懸崖(Vandalia bluff)とある」そうです。
欧米人の記録を見ていると、見知らぬ外国の地形などに自分たちが呼びやすいよう独自に名前を付けていることがよくあります。第二次大戦で戦場になった硫黄島や沖縄など、アメリカ軍側の戦記にもこのような表記がよく見られます。

 

 

紫陽花と竹林

外国人の日記を読んでいると、日本独自の植生の豊富さや美しさが驚きと共に書き残されていますが、それは私が長く日本をはなれて実感したことでもありました。

 

その中であらためて好きになった草木に、紫陽花と竹(竹林)があります。アメリカでは竹や笹は中国や日本などアジアを想起させる代表的な植物とされています。実際、アメリカでは竹は日本食レストランの庭やボタニカルガーデンの日本庭園など以外、自然に生えているのを見たことはありません。一時帰国するたびに新幹線から見える山に群生する竹林を眺めては「いま自分の国にいるんだ」と実感して喜んでいました。


スイスの駐日代表だったエメェ・アンベールは『絵で見る幕末日本』の中で、
「よく支柱として使われている竹は、その美しい葉で、果樹の蕾や若葉に劣らない美しさを見せている。だが、私は、竹が巨大な葦のように、一つの集団となって生育している姿を見る方がより好きである。金色の影と重なり合った茂みを持つ高い緑色のすばらしい幹と、よく茂った頭を支える細い強靭な枝、いたるところに無数の長い葉をまとい、空中に立つ数千本の旗のように風に揺れて動いているさま、これ以上、美しい風景はあり得ない。」と記しています。

 

日本の紫陽花は、シーボルトが日本の妻である「お滝さん」の名前を付けたことは有名です。

P・F・B・シーボルト『日本植物誌』より

紫陽花は関東の伊豆半島や房総半島が生育地でヨーロッパにはないため、イギリスのプラントハンター、ロバートフォーチュンよっても紹介されています。当時のプラントハンターは自国にはない観賞用または香辛料に有用な植物を収集するため世界中を探訪しており、アヘン戦争時の清国や日本を訪れています。

 

本来の日本の原種は「ヤマアジサイ」というものだそうで、それがヨーロッパで改良され、のちに日本に逆輸入されたものが、現在わたしたちが「アジサイ」と呼んでいる種なのだそうです。わたしの住む神奈川県西部では、街で見かける紫陽花の数が関西の実家周辺よりもだんぜん多く、住宅の庭から顔を出しているものや山や畑の畔に自生しているようなものまで、青や紫、ピンクや赤など色もとりどりで本当に目を楽しませてくれます。

 

ニューヨークでも紫陽花はありますが、色が白くてあんまりパッとしないなあと思っていたら北米東部原産のアメリカノリノキという品種だったようです。白もかわいいですが、日本のような青や紫色は鮮やかで美しいと感じます。改めて日本の植生の豊かさに驚かされ、とても新鮮な気持ちになります。

 

 

ハリスが見た日本の自然~下田の植物~

外国人の記録には異国、日本で目にした文化や風俗、人々の様子なども描きとめられており、その中には気候やその土地の植物の描写もふくまれます。彼らの母国とは異なった日本独自の植生が驚きとともに描かれていて面白いです。

 

ハリスは公務の合間に散歩によく出かけています。当時外国人には外出制限がもうけられていたため遠くまでは行けませんが、滞在先である下田の周辺に出かけたり、たまに制限外の場所にまで無理やり奉行を説得して出かけたりしています。
その先で目にした人々の様子や自然の美しさを日記に書きとめていますが、その中でもハリスが滞在していた下田の植物の種類がすごく豊富で美しいため、描きとめておこうと思います。

 

下田に上陸し、滞在先の屋敷の自室を掃除したり、棚や押し入れ、食卓を備え付けたりといった片付けなども落ち着いてきた1856年10月23日の日記には、「うららかな日。天気は十月のニュー・ヨークのように気持ちがよく、穏やかである。しかし、大気の中に煙も靄もない。そして、夜も寒暖計は六十度(注1)を下ることがない。五里ばかり散歩をした。」からはじまり、「江戸湾岸の外浦村を通り過ぎ、柿崎の背後にある名前を知らぬ村を通って帰った。今日は桜、桃、梨、柿の木、葡萄の蔓、蔦、新しい葉をつけた蜀葵(タチアオイ)、ひじょうに美しい水蝋樹(イボノタキ)、多くの羊歯(シダ)、多種の松樹、杉、針樅、樅、樟(クスノキ)を見た。日本椿は、当地では密林をなしていて、焚木に伐り出される。普通の薔薇の叢生を二、三見たが、花をつけていなかった。私が名前を知っている花の中には、野生ヒヤシンス、ふうりん草、私が東洋で見た最初のスコットランド薊(アザミ)、三色菫(すみれ)、黄色シャムロック、雛菊、その他、形はよく知っているが、名前を知らないもの、それから私には初めてのものなどが多数あった。自分が植物学者であったらよかったのにと、どんなに思ったことか。」と記しています。

 

また、別の日には「今日は森の中で一株の矢車草を見つけて、いたく感動した。この楚々たる花は、その芳香と共に、故国についての多くの連想を私におこさせたので、ホームシックの気味になり――すなわち一時間ばかり物悲しい気分にさそわれた。」と書いています。商人だったハリスは日本を訪れる前にも、タイや中国などを訪門していますが、その頃のヨーロッパ人にとっては日本は全く未開の地でした。そんな辺境ともいえる土地でたった一人(他の国の領事や通訳兼書記のヒュースケンがいるくらい)はじめての総領事としての役割を果たさねばならなかったのは、旅慣れたハリスでも心細かったと思います。


そんな中、植生ゆたかで温暖な下田を散歩することはハリスの心身の健康のにも良い影響を与えてくれていたようです。「ヘリオトロープと新種の五月花が開花しているのを発見した。(中略)私の幾人かの女の知人に、日本の野花の束を贈ることができたならばと思う。」とも書いています。

 

(注1)アメリカでは現在でも温度は摂氏(℃)ではなく華氏(℉)で表されます。0℃=32℉なので、60℉は約15℃となります。

 

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外国人が見た日本(近代以前の日本に見る動物との共生)~牛~

家畜を殺すことに馴れていないという点は、鶏だけではなく、牛に対してにも同様の反応が見られます。

 

特に運搬や農耕に不可欠な牛や馬を食用にするという感覚はなかったようです。八丈島では牛を殺すという行為はその地域にも不幸を呼ぶと考えられていたようで、殺した人が罰せられたという記録もあります。

ミャンマーアメリカ人の友人によると、ミャンマーの農家は牛をほとんど食べないそうです。農作業を手伝ってくれる牛を大切にしており、牛が死んだ場合も丁寧に埋葬すると言っていたので、仏教+牛が農耕に使われている場合には食用にするという意識は起こらないのかもしれません。

 

一方、日本では鹿や猪などの野生動物は「滋養」「薬食い」として食されていました。

江州彦根藩は武具や馬具に必要な牛皮を取るため城下周辺で屠牛が行われていました。その副産物として牛肉を使用した『牛肉漬』は有名でした。「薬種」「養生肉」として大名や将軍家への献上品として喜ばれていました。

歌川広重「名所江戸百景 びくにはし雪中」
山くじら=猪。ちなみにここにも犬がいますね

牛や豚や鶏を食べるために育て、殺すという感覚に一般の日本人がはじめて触れたのは、幕末に訪れた西洋人によってでした。

 

日本で最初に屠殺が行われたのは伊豆の下田といわれています。
当時、広大な敷地を有する寺院は外国人の領事館として使用されることが多く、ハリスが滞在していた下田にある玉泉寺は、幕末、アメリ総領事館として使用されていました。その境内に当時生えていた仏手柑樹という木の幹に牛をくくりつけて屠殺したという記録が残っています。その木は「屠殺木」と言われていたそうです。

 

英国の初代函館総領事のクリストファー・ホジソンは『ホジソン長崎函館滞在記』(A residence at Nagasaki and Hakodate in 1859-1860 : with an account of Japan generally)の中で、持ち込んだ羊を領事館として滞在していた寺院の敷地内で屠殺しようとした際に「坊主たちはみな恐れ震えながら見ていた。和尚は屠殺の間ずっと、私の執務室にかけこんで、今後いけにえを捧げる場合はどうか離れ家の羽目板の中でしてもらいたいと、私に懇願しつづけた。」と書いています。

 

また、灯台建設技術者として明治二年に来日した英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンは『お雇い外人の見た近代日本』(Pioneer engineering in Japan : a record of work in helping to re-lay the foundation of the Japanese Empire, 1868-1876)で、住民から牛を購入したところ、その牛が食用にされると知ったとたん、「断固として商売を拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば売ってもよいが、と殺するなら売らないというのであった。」と書いています。

 

「肉食」が公に解禁となったのは1872(明治5)年、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべき事)という太政官布告が明治政府によって出されてからでした。

これにより、皇室でも肉食が取り入れられるようになりました。これは神道の国教化を進めたい政府の思惑もあり、廃仏毀釈の圧力とも合わさって、特に仏教の僧侶の生活を一変させてしまうものでした。布告後すぐの明治5年2月18日、外国人が日本の国に入ってくることや西洋化によって、皇国の自然が汚れる」として天皇に直訴しようとした御岳行者が射殺される事件(御岳行者皇居侵入事件)がおきるなど、急速な西洋化による混乱が日本各地で見られるようになります。

 

収奪された大地-ラテンアメリカ500年(Las venas abiertas de América Latina 『ラテンアメリカの切り開かれた血脈』)エドゥアルド・ガレアーノ

いま森林破壊が深刻なアマゾンがあるラテンアメリカについて書かれた本です。有名な本なのでご存じの方も多いと思います。ベネズエラチャベス元大統領が、オバマ元大統領に勧めたことで有名になりました。

 

大航海時代から現代までラテンアメリカという大陸が、外部からの侵入者である西欧諸国の人々にどのように搾取されてきたか、そのプロセスがわかる、植民地経済は過去の出来事ではなく、現代の資本主義経済に直結しているということがよくわかります。


イラク戦争やシリア、ウクライナ問題まで世界で起きている紛争とつながっていますし、アメリカのコントロール下にある日本や韓国にも当てはまる部分が多くあります。

 

ラテンアメリカというと、貧困やゲリラ、政情が不安定というイメージを持たれる方が多いかもしれませんが、中南米諸国がなぜそんなふうになってしまったかも、この本を読むとよくわかります。

 

わたしが暮らしていたニューヨークは移民がとても多いので、いろいろな国の事情を垣間見ることができます。とくにメキシコやエクアドルなど中南米の移民がとても多く、スペイン語が第二公用語のようになっているほどですが、その中には不法移民としてアメリカに入国して生活している人も多く、国や州の最低賃金以下の給料で働いているのが工場畜産の延長の大規模食肉加工会社だったりします。

 

彼らがなぜそこまでしなければならないのか、からはじまり、大航海時代のスペイン、ポルトガルをはじめ、アメリカやイギリス、フランス、北欧諸国によって、ラテンアメリカという土地が少なくともこの500年間どのように搾取され翻弄され続けてきたのか、そしていまも搾取され続けているのか、そのプロセスがわかります。

 

この本をわたしに勧めてくれたのはメキシコ人の友人ですが、彼はもともと不法移民としてアメリカに入国しています。侵略者である白人を「グリンゴ」と蔑称するなど、ラテンアメリカンとしての誇りを持ちつつも、故郷であるメキシコの土地を搾取しつづけている侵略者アメリカという国で移民として生活し、そしてアメリカの価値観にもいやおうなく染まってしまっている。そんな彼らを見るとき、わたしは自分の国である日本を見ているように思えるときがあります。日本からは地球のほぼ反対側に位置するラテンアメリカのことなので、あまりピンとこない方もいるかと思いますが。

 

コロンブスアメリカ大陸を「発見」した日は『コロンブスデー』と呼ばれアメリカでは祝日ですが、最近では「先住民の虐殺」と結びつける考え方が主流になってきています。

 

「西欧諸国が悪」と言いたいわけではありません。この本には、いま世界中で大きな影響力を持ち、そして衰退を始めている資本主義とそれを生みだしてきたプロセス、それを突き動かしてきた原動力は何なのか、根源的なことが見えてきます。

 

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この記事はHachidoryのサイトに掲載させていただいています↓

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