外国人が見た日本(近代以前の日本に見る動物との共生)~牛~

家畜を殺すことに馴れていないという点は、鶏だけではなく、牛に対してにも同様の反応が見られます。

 

特に運搬や農耕に不可欠な牛や馬を食用にするという感覚はなかったようです。八丈島では牛を殺すという行為はその地域にも不幸を呼ぶと考えられていたようで、殺した人が罰せられたという記録もあります。

ミャンマーアメリカ人の友人によると、ミャンマーの農家は牛をほとんど食べないそうです。農作業を手伝ってくれる牛を大切にしており、牛が死んだ場合も丁寧に埋葬すると言っていたので、仏教+牛が農耕に使われている場合には食用にするという意識は起こらないのかもしれません。

 

一方、日本では鹿や猪などの野生動物は「滋養」「薬食い」として食されていました。

江州彦根藩は武具や馬具に必要な牛皮を取るため城下周辺で屠牛が行われていました。その副産物として牛肉を使用した『牛肉漬』は有名でした。「薬種」「養生肉」として大名や将軍家への献上品として喜ばれていました。

歌川広重「名所江戸百景 びくにはし雪中」
山くじら=猪。ちなみにここにも犬がいますね

牛や豚や鶏を食べるために育て、殺すという感覚に一般の日本人がはじめて触れたのは、幕末に訪れた西洋人によってでした。

 

日本で最初に屠殺が行われたのは伊豆の下田といわれています。
当時、広大な敷地を有する寺院は外国人の領事館として使用されることが多く、ハリスが滞在していた下田にある玉泉寺は、幕末、アメリ総領事館として使用されていました。その境内に当時生えていた仏手柑樹という木の幹に牛をくくりつけて屠殺したという記録が残っています。その木は「屠殺木」と言われていたそうです。

 

英国の初代函館総領事のクリストファー・ホジソンは『ホジソン長崎函館滞在記』(A residence at Nagasaki and Hakodate in 1859-1860 : with an account of Japan generally)の中で、持ち込んだ羊を領事館として滞在していた寺院の敷地内で屠殺しようとした際に「坊主たちはみな恐れ震えながら見ていた。和尚は屠殺の間ずっと、私の執務室にかけこんで、今後いけにえを捧げる場合はどうか離れ家の羽目板の中でしてもらいたいと、私に懇願しつづけた。」と書いています。

 

また、灯台建設技術者として明治二年に来日した英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンは『お雇い外人の見た近代日本』(Pioneer engineering in Japan : a record of work in helping to re-lay the foundation of the Japanese Empire, 1868-1876)で、住民から牛を購入したところ、その牛が食用にされると知ったとたん、「断固として商売を拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば売ってもよいが、と殺するなら売らないというのであった。」と書いています。

 

「肉食」が公に解禁となったのは1872(明治5)年、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべき事)という太政官布告が明治政府によって出されてからでした。

これにより、皇室でも肉食が取り入れられるようになりました。これは神道の国教化を進めたい政府の思惑もあり、廃仏毀釈の圧力とも合わさって、特に仏教の僧侶の生活を一変させてしまうものでした。布告後すぐの明治5年2月18日、外国人が日本の国に入ってくることや西洋化によって、皇国の自然が汚れる」として天皇に直訴しようとした御岳行者が射殺される事件(御岳行者皇居侵入事件)がおきるなど、急速な西洋化による混乱が日本各地で見られるようになります。