外国人が見た日本(近代以前の日本にみる動物との共生 )〜鳥類と日本人 その3〜

ハリスは日記の中で、「帰途、わたしはこれまで見たうちで最も大きい鸛(コウノトリ)の群れを見た。日本では、あらゆる種類の野生の動物(用心深い鴉まで)が、驚くほど人馴れしている。日本の少年たちが、コーカサス人種のような破壊的風習に耽ることのないことを示すものだ。鸛は一年中この土地にとどまっているし、雁も冬の塒(ねぐら)をこの地に定める。」と書いています。

 

鸛(コウノトリ)は、この後もハリスの日記に何度か出てきます。
また、ハリスの通訳兼書記として日本を訪れたヘンリー・ヒュースケンは『ヒュースケン日本日記(Japan Journal)』の中で、「神奈川と江戸の中間でたくさんの鸛(コウノトリ)を見たことがある。大型で、羽の白さは類がない。これを殺すことは禁じられている」と書いています。

 

鳥の数が多いという記述は上記以外の外国人の記録にも多々出てきます。その理由は、江戸時代を通じて行われていた「鷹狩」の影響が大きいようです。

 

「鷹狩り」とは、飼いならした鷹を放って鳥や小動物を狩る狩猟の一種で、世界では紀元前からモンゴルや中国、インドなどで行われ、日本では古く仁徳天皇の時代から行われていたという記録があります。
狩りの対象になるのは白鳥(しらとり)や雉、鷺、鴨、などで、「白鳥(しらとり)」とは白鳥(ハクチョウ)のほか鶴や白鷺、鸛など羽の白い鳥の総称としても用いられていたようです。
「鷹狩り」は、単なる遊興以上に、朝廷や大名間の重要な儀礼として行われており、特に鶴は「鶴御成」として将軍が天皇に献上したり、大名間の贈答用として特別だったようです。江戸時代は将軍の狩場『御留場』として江戸十里四方を獲物となる鳥の鳥追いや殺生を禁じていました。

 

御留場に指定された土地には鳥見役などの役人ががおかれ、生息地に不審者が入り込んだら報告する、鳥を襲う可能性がある野良犬は追い払う、鳥を襲わないよう飼い犬は繋いでおく、鳥のエサになる川の魚は獲らない、雛が落ちているのを見つけたら保護してエサを与える、などが行われていたようです。

 

こういった保護政策は、現代のような「種の保存」や「生態系」のためというより、狩りの獲物である鳥の生息環境を維持するためといった要素が強いです。
なので、狩りの獲物にならない鳥や、鳥の雛を食べるトンビは伊豆大島へ放鳥されたり巣が取り払われたり、現代の生態系保全の意識からは大きく外れた対応をしていた記録がいくつも見られます。

 

また、御留場に限らず、「猟師以外は鳥獣をとってはいけない、猟師も鶴としらとりは獲ってはいけない」という一文や、その他の鳥類に対しても、稲などを食い荒らすリスクがあるにも関わらず、鉄砲で撃ってもいいのは作物に被害を与える畜類のみで、鳥類は案山子やとりおどしでの対応に限られていたという記録も見られ、一般には「鳥は獲ってはいけない」という認識が浸透していたようです。

狩り=殺生ということで「生類憐みの令」で知られる綱吉の時代には廃止されたこともあったようですが、そうなると一般人による乱獲が増えたり、鳥類のために保全が行われていた森林が荒れはてたりといったこともあったようです。
いったん廃止になった鷹狩ですが、八代将軍吉宗のころに復活し幕末まで続いていました。